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77年前の大スタジアム、甲子園南運動場
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“御崎”“ユニバー”“ウイング”。町と地域のメッカは神戸と世界を結ぶ
77年前の大スタジアム、甲子園南運動場

 正式には神戸中央球技場――市民には御崎サッカー場と親しまれた――の見事な芝のピッチと、夜間照明を持つスタジアムは、収容人員は1万2,000と小ぶりではあったが、北側に少年専用コート、西側にも一般用グラウンドを配していた。一般用は土だったが、少年用のピッチは芝が植えられ、85年のユニバーシアードで新たに神戸ユニバー総合運動公園が作られるまで、少年サッカーのメッカとなった。
 先述のとおり、この“御崎”の建設を市に強く働きかけたのが御影師範、神戸一中のOBたちだったが、その推進力となった加藤正信や大橋眞平、空野章、黒崎一市といったメンバーは、昭和5、6年(1930、31年)にそれぞれ全国中等学校大会で優勝したときの選手だった。この人たちがプレーしたのは昭和5年から新しく会場となった甲子園南運動場であったこともまた無縁ではないハズ。

 昭和4年5月に完成した甲子園南運動場は、阪神電鉄が野球場(甲子園球場)とともに計画した大スポーツセンター構想の、それぞれ、北と南の核となるもの。1周500メートルのトラックの内側に芝生のサッカー、ラグビー場を配し、片側ながらコンクリート造りの2万人収容のスタンドを持つ、陸上競技と球技の総合運動場だった。2つのスタジアムの間に、百面コートと称するテニスコート群と、スタンド付きのテニス・メインコート、水泳プールがあり、浜辺に作られた阪神パークとともに西日本最大のスポーツ・レジャーセンターだった。
 不幸にして太平洋戦争のために野球場以外は残ることはなかったが、少年のころに、スタンドの観衆を前に芝のピッチでプレーした記憶が、加藤さんや大橋さんたちの“御崎”への思いを強くしたハズである。
 阪神電鉄に対抗して阪急電鉄もまた、野球場と、その周辺に球技場を作り、ここが戦中と戦後の一時期、サッカーのビッグ・イベントの会場となった。