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“出足”の河本春男と“牛”の黒田和生

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人材輩出の兵庫サッカーの中で40年の時を隔てて現れた2人の指導者
“出足”の河本春男と“牛”の黒田和生

 兵庫のサッカー界は草創の頃から多くの人材に恵まれていた。
 1927年に日本が初めてフィリピンに勝ったときの代表だった玉井操さんは、昭和6年(1931年)の兵庫支部長以来、40年来、兵庫のサッカーのトップであっただけでなく、JFA(日本サッカー協会)の副会長としても、あるいは関西協会の会長としてもサッカーの組織のなかの中枢だった。
 2002年ワールドカップを待ち焦がれ、その準備に力を尽くしながら、見ることなく去った高砂嘉之会長も、1947年の理事長就任以来、10年の会長職を含めて兵庫の向上に30年間働き続けた。
 その高砂会長時代に、兵庫サッカーの歩みが一冊にまとめられた。戦前からの膨大な資料の上に、戦後はまた、最も早く、協会以外の活動も多いところだったから、その記録の集積も大変だっただろう。
 その兵庫県サッカー70年史を見れば、多くの人材に恵まれたという私のこの項の頭の記述が正しいことがお分かりになるハズだ。
 その多くの人の名をウェブサイトに掲載するのはまた別の機会に譲るとして、今度のサイトの終わりに、わたしがずっと見続けてきた、2人の指導者について記すことにしたい。

 2006年10月9日、埼玉スタジアムでの高円宮杯全日本ユースサッカー選手権(U−18)大会決勝で、滝川第二高等学校が3−0で名古屋グランパス・ユースを破るのをテレビで見ながら、わたしは、黒田和生監督と初めて会った日のことを思い出した。
 1971年4月1日、筑波大学を卒業したばかりの彼は、神戸FCに技術職員として勤めることになった。
「子どもたちにサッカーを指導するのに、しっかりした教育を受けたコーチが必要。そういう人を受け入れるためにもクラブを法人格にしよう」という考えだったから、加藤正信事務局長にとっても玉井操会長にとっても、黒田コーチはまさに金の卵だった。
 その年の夏合宿で、彼が「わたしは生来、のんびりしていて牛のようだといわれています。歩みはゆったりですが、手を抜くことなく、ひとつひとつをしっかり積み重ねてゆきたいと思います」と挨拶した。
 それから10余年の経験をクラブで積み、新設の滝川第二高等学校の先生となってサッカー部の設立運営に関わった。
 滝二のチームは徐々にレベルアップの道を歩んだ。ペースは早いとはいえないが着実だった。「ベスト4にも達した。しかし勝っていないのです」などと言っていたのが、とうとうトップに立ったのだった。

 黒田監督が初めて神戸へ来た年から41年前、1932年に、やはり筑波(当時は東京高等師範)を卒業したサッカー人が旧制・神戸一中(現・神戸高校)に着任した。河本春男――のちのユーハイム社長、神戸市協会の会長、神戸FCの会長――だった。
「全国優勝を何度も経験している学校にサッカーを知っている部長がいなくては不都合」と、当時の校長・池田多助が高師へ出向いて懇望し、手に入れた22歳の体操教師だった。
 小橋信吉、播磨幸太郎、小野礼年などの5年生、3年には二宮洋一、津田幸男、直木和、田島照策といったのちの日本代表候補がずらりといた。
 そろっているだけに、ともすれば天狗になりがちな若者の心をつかみ、巧みに体を鍛えて、河本先生はこのあと戦前の神戸一中の黄金期をつくる。
 岡山女子師範がその力量と人格を見込んで学校の気風立て直し役にと願い、神戸一中での仕事は昭和14年(1939年)まで7年で終わったが、その短い間にOB会の組織を強固にし、地方の中学校クラブを長く全国トップに置く企画に成功した。
 サッカーは「出足(であし)が第一」とし、自ら「一歩先じ、一刻早く」を人生のモットーとしていた。その才覚はユーハイムという会社の経営にあらわれている。

 兵庫の長いサッカー史のなかで、「出足」と「牛」の指導を持つ二人の指導者がいて、一方は完成途上のクラブを一気に高みに引き上げてそれを維持する体制を作り、一方は白紙の状態から一歩ずつ積み上げて新しい学校クラブをトップに仕上げていった。タイプの異なる優れた指導者を持ったことは、まことに幸いだったと思っている。
 賢者は歴史に学ぶという。サッカーの指導を志す者も、先人から受け取るものの大きさを知るべきだろう。