兵庫県サッカー史ウェブサイト
兵庫サッカーの礎 世界のスーパープレーを見た 兵庫から世界へ 兵庫サッカーを語る
ヴィッセル神戸
兵庫サッカーと日本代表
“出足”の河本春男と“牛”の黒田和生

インデックスに戻る

ホームに戻る

兵庫サッカーと日本代表

1930年 日本流サッカーの追及に踏み込み成功した高山、若林、市橋たち

 1921年(大正10年)に大日本蹴球協会(現・日本サッカー協会、JFA)が設立されたとき、対外試合の目標は、まず極東大会に勝つことだった。
 フィリピンと中華民国と日本と、三国で争われる総合競技大会。サッカー競技に日本が挑んだのは1917年(大正6年・東京)の第3回大会が初めて。以来、第5回(1921年・上海)第6回(1923年・大阪)第7回(1925年・マニラ)と挑戦し、第8回大会(1927年・上海)で初めてフィリピンに2−1で勝って国際舞台の初勝利を記録した。

 1930年(昭和5年)東京で第9回大会を迎えるにあたって、JFAは、これまで国内予選で勝ったチームを代表としていたのを、初めて全国の選抜チームを計画し、東西の大学リーグから優秀選手を選んで合宿練習によるチーム強化を図った。
 最終的には組織力重視の考え方から当時の大学ナンバーワンであった東大が主力となったが、そのなかに、高山忠雄、若林竹雄(ともにFW、東大)西村(赤川)清(CH、京大)市橋時蔵(FW、慶大)後藤靱雄(DF、関学)斉藤才三(GK、関学)の6人の兵庫勢が入っていた。
 この大会で日本はフィリピンを7−2で破り、中華民国と3−3で引き分け、初めて東アジアのトップに立ち、中華民国と肩を並べるとともに、自分たちが目指した、個人力に優れた中華民国に対抗する組織プレーの方針や基本技術とランプレーを重視するやり方が間違っていないことに自信を得た。

 国内の評価も高まり、日本流サッカーは6年後にアジアから世界へと舞台を移してベルリン・オリンピックでの対スウェーデン逆転勝ちを演じ、内外に大きな反響を呼んだが、これはJFA設立からわずか10年の間の進歩が基礎となり、その延長戦上の成果でもあった。
 その1930年のチームづくりに神戸一中や関西学院――兵庫育ちが大きく関わったことは、日本と兵庫の歴史の上で忘れることができないものだ。

 ベルリン・オリンピックの対スウェーデン戦の勝利の大きさについてよく知られている日本代表は、30年よりもさらにチーム力重視の考えを強めたのと、選手の選考にあたって関西側の不満が高まって辞退するまでになり、早大主力、関東中心のチーム作りとなった。兵庫の出身者は右近徳太郎(神戸一中・慶大)と西邑昌一(甲陽中・関学・早大)の2人だけだったが、欧州の評論家が右近を高く評価したことは記憶しておきたい。
 こうした伝統は、戦前から戦中、戦後と続き、第1回アジア競技大会の日本代表の16人中11人が兵庫出身者――という多数を占めたこともあった。

 サッカーの全国への浸透が進み、埼玉、静岡、広島をはじめ各地区から優秀選手が輩出されるようになったこと、東京オリンピックに際して選手を東京に集中して強化したこと、高校サッカーが首都圏へ移ったこと――などで、関西のレベルアップは停滞し、日本代表の合宿でも関西弁、神戸弁は少なくなる。
 しかし選手たちや指導者の努力はそうしたハンディを越えて、再び代表へ神戸育ちが送り込まれるようになった。中盤のパスの名手・奥大介、2002年に活躍した明神智和、右サイドの加地亮、鋭いアタッカー・播戸竜二たちは少年たちの憧れる実力派。デカモリシこと森島康仁は最も期待される若手CF(センターフォワード)のひとり。
 フランス人フィリップ・トルシエは戦う姿勢を、ブラジル人ジーコは自主とポゼッションサッカーを、イビチャ・オシムはラン・プレーと日本流サッカーの形成を説いているが、80年前に“日本流”へ踏み出したこの地から、数多くの代表が加わることこそ代表力アップにつながるハズだ。