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ヴィッセル神戸
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ヴィッセル神戸

大震災による出遅れを克服

 95年の阪神淡路大震災は、当然のことながら兵庫・神戸のサッカーに大きなマイナスとなった。
 学校のグラウンドや町の周辺の広場は仮設住宅となり、復興資材置場となってスポーツ活動は疎外された。
 Jリーグ開幕に遅ればせながら、94年に(株)神戸オレンジサッカークラブを設立して、いよいよ加盟への体制を整えながら、バックアップするダイエーが自らの震災被害の大きさのために出資企業から撤退してしまった。
 その困難な状況を神戸市が中心となって、スポンサー企業とともに95年に「ヴィッセル神戸」とチーム名を新しくして船出し、97年にJリーグに昇格した。
 市をはじめとする関係者の努力が、震災をこえて結実した。
 スタートでの出遅れはその後にも響き、リーグでの成績は7位が最高で、下位低迷の印象がつづいた。2002年のワールドカップ開催もあって、観客動員も増加の兆しが見え始めた2004年に、ヴィッセル神戸は“楽天”傘下の(株)クリムゾン・フットボールクラブに営業権を譲渡した。クラブ運営の現場のトップも、サッカー人が務めることになった。

 

新しいヴィッセルと兵庫全体の力

 立派なスタジアムがあり、体制が整い、チームに人を得れば、あとはいいサッカーをして勝負に勝ち、サポーターを喜ばせ、市民の気持ちのよりどころとなるクラブをつくるだけである。
 人口130万の大都市・神戸。しかも日本のサッカーのかつての先進地であった港町に生まれたプロフェッショナルのヴィッセル神戸が、J1でまだタイトルに縁がないのが不思議なことだ。
 震災という大事件のために遅れたスタートを取り返すためにも、有名選手の獲得で一時的な人気を得るだけでなく、兵庫という、少年からU−18(18歳以下)まで、小学生から中高生まで広く厚い層のレベルアップを図り、この土地で育ったいいプレーヤーをサポーターの代表として、Jやアジア、そして世界のトップ・リーグのチームとの試合をしてもらいたいもの。
 もちろん、そのためには選手だけでなくヴィッセルから各層のクラブの監督、コーチ、指導者たちの努力も大切だ。外国の指導法の踏襲でなく、日本のサッカー、神戸のサッカーを自ら考え出す努力も必要だと、多くの人は考えている。
 滝川第二、神戸弘陵、あるいは神戸FCをはじめとするいい選手を生み出してきた土壌に感謝するとともに、あとワンステップ・アップの努力を期待したい。