兵庫県サッカー史ウェブサイト
兵庫サッカーの礎 世界のスーパープレーを見た 兵庫から世界へ 兵庫サッカーを語る
(1)サッカー黎明期 − サッカーの伝来とKR&ACによる浸透
(2)兵庫サッカー黄金時代 − 御影師範や神戸一中が日本一に
(3)サッカー先進地・兵庫 − サッカーのメッカと法人格を持ったクラブ
兵庫サッカー略史

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(3)サッカー先進地・兵庫 − サッカーのメッカと法人格を持ったクラブ

大戦後の困難からの復興。少年スクール、法人格クラブを生み、
メッカ“御崎”を作った兵庫サッカーの先進性(先見性)

 太平洋戦争による中断と大戦後の経済困難によって、次の世代のレベルアップには大きな苦労が伴った。
 1951年の第1回アジア大会の代表16選手中に、兵庫出身者が11人もいた。このうちの2人、賀川太郎(神戸一中41回、神大)と鴇田正憲(同45回、関学)は実業団の田辺製薬でも日本代表でも右サイドの攻撃ペアだったが、東京オリンピック前に来日したデットマール・クラマーが2人のプレーを見て「パスのやり取りは、この2人のようにすればよい」と当時の代表に話した(もっとも、クラマーは私に、この技術がなぜ日本代表に伝承されていないのだ――と嘆いた)ことは、彼ら世代のレベルを示すものといえた。
 こうした技術の伝承は、大戦後の学生改革や社会の変動などで必ずしも兵庫に根づきはしなかったが、この地域のサッカー人の先進性は別の形となってあらわれる。

 東京オリンピックの翌年からスタートした神戸少年サッカー・スクールは、それまでの短期の講習会や、学校単位の練習会でなく、特定の会場で月に何回かを恒常的に指導するという定期的なもの。このスクールは全国に広がり、少年サッカーブームに火をつける。
 スクールの提唱者は加藤正信、大橋眞平、空野章といった旧・神戸一中や御影師範のOBたち。それをバックアップしたのは玉井操(元・日本サッカー協会(JFA)副会長)田辺五兵衛といったかつて極東大会に情熱を燃やした長老たちだった。長い経験の上に新しい考えを持ち、海外の事情にも詳しいこれら先人たちは、ヨーロッパ流の「誰もがボールを蹴れる」クラブの設立を考える。
 1963年に「兵庫サッカー友の会」をスタートした同好の士の集まりは、1970年にわが国初の法人格市民スポーツクラブ「社団法人神戸フットボールクラブ」を創設した。日本の多くの競技団体の中でも先進的なサッカーのJFAが法人格となるより前のことである。
 このクラブの特色は、会員の区分を年齢別にしたこと。この考えはJFAにも採用され、いまやU−18(18歳以下)U−16(16歳以下)などという言葉は常識となっている(世界の常識が日本の常識となった)。

 加藤、大橋たちのグループは同時に、神戸に「国際試合のできるスタジアム」を持ちたいと願い、その実現に働く。
 1969年3月30日、御崎サッカー場(神戸中央球技場)が完成し、1万2千の収容力のスタンドと夜間照明を備えた芝生の球技場が神戸市民のものとなった。3万余の署名が市民の賛同の後押しをするとともに、兵庫サッカー協会のメンバーの各方面への働きかけが成功した。
 国立競技場以外に、そのころ、ナイター設備を持つスタジアムはなかったから、御崎は1979年のFIFAワールドユース大会の会場をはじめ、各国代表やスター軍団来日の際には欠くことのできないプレーの場となった。市の関係者の努力で芝生の状態がよく、“御崎”の名は“よい芝”の代名詞にもなった。
 ペレやエウゼビオやベッケンバウアー、マラドーナなどのスーパースターのプレーから、市民の間に、「神戸にサッカー専用競技場があるのが常識」という空気が生まれ、2002年ワールドカップの際にも当然のように御崎に新たな専用スタジアムの建設が決まることになる。

 地方都市ながら、法人格市民スポーツクラブも作り、年齢別を採用し、メッカとなるスタジアムを持った、神戸と兵庫の先進性は一時的には技術レベルの停滞はあってもやがて、プロ導入の1993年以降、各層でのレベルアップに向かうことになる。