兵庫県サッカー史ウェブサイト
兵庫サッカーの礎 世界のスーパープレーを見た 兵庫から世界へ 兵庫サッカーを語る
(1)サッカー黎明期 − サッカーの伝来とKR&ACによる浸透
(2)兵庫サッカー黄金時代 − 御影師範や神戸一中が日本一に
(3)サッカー先進地・兵庫 − サッカーのメッカと法人格を持ったクラブ
兵庫サッカー略史

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(2)兵庫サッカー黄金時代 − 御影師範や神戸一中が日本一に

大戦前の黄金期にみられる兵庫の先進性

資料写真

御影師範が獲得したトロフィー類(1925年)

 大正7年(1918年)大阪・豊中グラウンドではじまった日本フートボール大会(現・高校選手権大会)の第1回から昭和15年(1940年)の第23回までの間に、兵庫県のチームが16回優勝。7回準優勝している。
 地域予選を行なう全国大会となったのが大正15年(1926年)の第9回大会で、それまでは“日本”と名乗っても近畿のローカル大会だったから、第1回から第7回までの御影師範の連続優勝(第8回は神戸一中)は正確には日本一とはいえないが、全国大会となった第9回以降も御影師範が4回、神戸一中が4回、準優勝は神戸一中と神戸三中が各1回と、14回の大会に兵庫代表が8回タイトルをとり、10回決勝に進出している。
 なお、つけ加えるなら、昭和14年(1939年)から昭和17年(1941年)まで4回開催された明治神宮競技大会のサッカー・中学の部(師範学校も含む)で神戸一中が3回優勝しているから、いわゆる戦前の中学校(師範を含む)の公式の全国タイトル18のうち11を兵庫勢が獲得していたことになる。

資料写真

御影師範のメンバー(1925年)

 全国優勝は両校に集中しているが、兵庫県全体のレベルが高く、御影師範にも神戸一中にも、兵庫で優勝すれば全国大会はなんとかなる――といった空気があった。
 神戸三中(現・長田高)甲陽中(甲陽高)灘中(灘高)などから日本代表が生まれ、また、御影も神戸一中も調子を万全に持ってゆかなければ県予選の決勝にたどりつけなかったこともあった。なにより全国を8〜16地域に分けた予選制で、兵庫は当初から当然のように1県1代表だったことが、そのレベルの高さを示している。

 この時期の兵庫サッカーはタイトル獲得だけでなく、技術、戦術や選手育成、チーム強化について全国に一歩先んじていた。その先端が神戸一中だった。
 大正12年(1923年)にビルマ(現・ミャンマー)人のチョウ・ディンの半日の指導を受けて、それまでの技術や試合運びの疑問点を解明した話は、神戸一中・神戸高校の部史のなかでの“伝説”となっているが、年齢が2歳上で、体格も走力も優れた御影師範に追いつき追いこそうという少年たちの“負けず嫌い”が、有能なビルマ人の半日の指導を結実させ、大正14年(1925年)、非予選制最後の第8回日本フートボール大会(参加22チーム)で優勝した。
 ロングボールと個人のドリブル突破に頼る御影をはじめとする師範勢も、短いパスをつなぎ、攻め込む神戸一中に屈した。
 以来、この学校は組織サッカーとそのための基礎技術アップ、さらには走力強化で体格の劣勢を逆手にとり小柄で敏捷という特性を生かすことで、この年齢層、いまでいえばU−17(17歳以下)の全国的チームとなる。
 それは相手が2歳上の師範であっても、あるいは予選制によって参加するようになった朝鮮地方(当時は日本の一部)の代表であっても変わらなかった。

 県内一というより全国有数の進学校であったこの学校のサッカー部(ア式蹴球部)の活躍の基礎には、(1)当時、神戸でもサッカーの盛んな小学校(御影師範附属小、雲中小学校、須磨小学校など。いずれも御影師範の卒業生が教えた)からの入学者が多かったこと、そして、(2)旧制高校や大学へ進んだOB、あるいは社会人となった卒業生が休日に集まって中学生を指導するOBクラブ(神中<じんじゅう>クラブ)を組織したことなどが背景となっている。
 小学生のときにボールに馴染み、中学生でしっかりした練習をして体を練る。そして年長のOBたちとともにプレーをする――といった旧制中学生プレーヤーの育成組織として申し分ない環境が、全国をリードするU−17チームを毎年のように作りあげ、昭和5年(1930年)の極東大会以降の日本サッカーの組織重視思考の基礎となるとともに数多くの日本代表を送り出すことになった。
 大戦争による中断期がなければ、このやり方が兵庫県内にも浸透して多くの強チーム、優秀選手の輩出は目に見えていたのだが……。