兵庫県サッカー史ウェブサイト
兵庫サッカーの礎 世界のスーパープレーを見た 兵庫から世界へ 兵庫サッカーを語る
(1)サッカー黎明期 − サッカーの伝来とKR&ACによる浸透
(2)兵庫サッカー黄金時代 − 御影師範や神戸一中が日本一に
(3)サッカー先進地・兵庫 − サッカーのメッカと法人格を持ったクラブ
兵庫サッカー略史

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(1)サッカー黎明期 − サッカーの伝来とKR&ACによる浸透

サッカーの伝来とKR&ACによる浸透。

 港には万物往来、文化の交流があるとすれば、平清盛の昔、あるいはそれ以前からの大輪田の泊(おおわだのとまり=神戸港の前身)に、古代・東アジアのフットボール“蹴鞠”に関する多くのものが中国大陸や朝鮮半島から伝来したことを想像するのはまことに楽しいが、そうした古代のロマンはしばらく措(お)くとして、1863年にイングランドでFA(フットボール・アソシエーション=協会)が設立され、ルールが統一されて世界に広まった“手を使わないフットボール”つまりサッカーが神戸にも明治開港のころから持ち込まれ、根を下ろしてきたことは間違いないところである。

 日本サッカーの歴史を見れば、明治10年(1877年)に設立された国立の体育伝習所がその教科にフットボールを取り入れ、のちに伝習所が東京高等師範学校(略称・高師、現・筑波大学)となってから、高師のフットボール部が、明治、大正から昭和前期にかけて学校を通じてサッカーの伝導、普及の大きな柱となったことはよく知られている。同時に各学校の外国人教師の指導や、外国人スポーツクラブの影響もまた大きかった。

 神戸では明治3年(1870年)に神戸レガッタ・アンド・アスレチック・クラブ(KR&AC)が創設され、在留外国人のスポーツクラブとしてスタート。明治17年(1884年)に創立された横浜クリケット・アンド・アスレチック・クラブとの間に、明治21年(1888年)に定期戦がスタートし、以来、120年にわたって続けられている。
 いまの神戸市役所の南側にあった居留地のグラウンドでのKR&ACのスポーツ活動は市民にも親しまれ、明治時代の新聞などでも「居留地で蹴鞠会(けまりかい)」などと報道されていた。
 KR&ACの影響を受けて、各学校でのサッカーが盛んになり、ルールや技術、戦術などの新知識は他の地域より早く伝わって、大正期には兵庫はサッカーの先進地となり、御影師範や神戸一中などが全国一となる。

 近年の関西サッカー協会の調査では、明治4年(1871年)3月4日発行の英字新聞『The Hiogo News』に「本日午後4時30分から居留地でフットボール試合が行なわれる。プレーヤーは遅れないように」との告知記事があることが明らかになった。
 JFA(日本サッカー協会)の「明治6年(1873年)に東京・築地の海軍兵学校で英国海軍のアーチボルド・ルシアス・ダグラス少佐とその部下の将兵がプレーしたのが日本で初めてのこと」という『日本サッカーことはじめ』の記録より2年早い。もちろん、正確な史実とするためには、まだまだ調べなくてはなるまいが、早い時期に発展したこの地へのフットボール伝来の古さを示すひとつといえるだろう。